Desmond Muirhead
デズモンド・ミュアヘッド(Desmond Muirhead)
1924年英国生まれ ~2002年。
ケンブリッジ大学などで建築 工学・造園学・園芸学を学ぶ。
ピカソやダリを思わせる革新性の高いデザインで、とにかく印象的なコースが多い。「奇才」として知られるコース設計者。建築工学、造園学、園芸学を学び、広範な知識をバックボーンとした独自の設計哲学を持つ。アートとも呼べる独創的なコース、見た目にも楽しむことができるコースを数多く生み出してきた。
Mission Hillsカントリークラブ(カリフォル ニア州)やジャック・ニクラウスとの共作(オハイオ州)が代表作。
特に、
ニクラウスとのコンビで設計したMuir FieldVillageミュアフィールド・ビレッジ(米国・オハイオ州)は、ゴルフ設計家としての彼の名を世界に知らしめた。
*日本国内
セゴビアゴルフクラブインチヨダ・アバイディングゴルフソサエティ・オークビレッヂゴルフクラブ
芝山ゴルフ倶楽部・ブリック&ウッドクラブ・富士クラシック・新陽カントリー倶楽部・若木ゴルフ倶楽部
1.ミュアヘッドの経歴
デズモンド·ミュアヘッド(Desmond Muirhead)は1923年、イングランド東部ノーフォークに生まれました。
ケンブリッジ大学で建築工学、カナダのブリティッシュ·コロンビア大学で造園学、米国のオレゴン大学で園芸学を学びました。元々は都市空間デザイナーであり、アリゾナの宅地開発の延長からゴルフ場設計の道に入りました。
世界15カ国で110カ所以上のゴルフコースの設計に関わり、このうち、日本では10コースの設計を手がけました。
代表作に米国ではLPGAのメジャートーナメント開催コースであるミッションヒルズカントリークラブ(カリフォルニア州ランチョミラージュ)、PGAのメモリアルトーナメントが開催されるジャック·ニクラウスとの共作ミュアフィールドビレッジゴルフクラブ(オハイオ州コロンバス)、 デザートアイランドゴルフアンドカントリークラブ(カリフォルニア州ランチョミラージュ)などがあり、また米国以外では、インドネシアのジャカルタ近郊のインペリアルゴルフクラブやUAEドバイのアドレスモンゴメリードバイ(コリン·モンゴメリーとの合作)、オーストラリアのクイーンズランド州等4カ所でのポケットタウン等があります。
マサチューセッツ工科大学など多くの大学で教鞭を取り、6冊の著書を遺しています。
2002年5月2日、79歳で亡くなりました。
2.ミュアヘッドの人物・業績
ミュアヘッドは、ケンブリッジ大学で都市計画を学びました。時はちょうど第二次世界大戦の真只中。ミュアヘッドは英国空軍に入ります。口の悪い批評家から「ミュアヘッドのコースデザインは、ヘリコプターからプレーするために作られたかのように見える。」と評されることもありますが、空軍の飛行士としての2,000時間以上の飛行経験が、彼にその傾向と能力を与えたのかもしれません。彼自身もフロリダ州アバディーンGCの有名な人魚の形をしたホールについて、「空から見ると構成の素晴らしさが分かるが、地上では普通のリンクスのように見える。」と語っています。3,000m上空からの情景を思い浮かべながら設計するというのはあながち誇張ではないのでしょう。
また、彼の設計の特徴として、ティーイング·グラウンドが高い位置に設定される傾向にあることにお気づきでしょうか?これは、「最近自信喪失気味のアメリカ人男性に元気を与えるため。」と彼自身が述べています。「ゴルファーに自らの力強さを実感してほしい。」「ほんのわずかな高低差であっても、それは人にエネルギーを与えるのだ。」とも述べています。「地形主義」という言葉はミュアヘッドの造語かもしれませんが、低いところはより低く、高いところはより高くという技です。
その後、ブリティッシュ·コロンビア大学やオレゴン大学でも都市デザインを学んだミュアヘッドは、不動産開発の企画·設計の仕事に入ります。60年代初めにアリゾナ州で穏退者向けコミュニティの開発に関わるまで、ゴルフ場の設計には携わっていませんでした。そこからゴルフ場設計に関わり始めたわけですが、彼の最大の功績はゴルファー、ゴルフ場、隣接の不動産開発のバランスや関係の重要性を最初に考えたということです。後には当然の設計コンセプトになりましたが、当時としては最先端の考え方でした。ゴルフホールに面する住宅の観点、道路がゴルフ場を妨げない配慮、遊歩道や自転車道との連続性、クラブハウスがいかにビレッジやコミュニティの中心として最も適切に機能し得るか、ゴルフコースがコミュニティの排水にとって有効であるか。こういった視点はミュアヘッドから発しています。それまでゴルフ場はどちらかと言えば、余った土地で作るという発想であったのが、最初に考えられるべき部分がゴルフ場であることを唱えたのもミュアヘッドです。コミュニティとゴルフ場の設計が同じ思考から発すれば、自ずと協調性が生まれるというのが、彼の信念でした。
60年代半ばにはすでにゴルフ場設計家としての頭角を現していたミュアヘッドですが、この頃の傑作としては、1970年開場のミッション·ヒルズCCダイナショアコース(カリフォルニア州ランチョミラージュ)があります。今も米国LPGAのメジャー第1戦ANA Inspiration(旧クラフト・ナビスコ選手権)の開催コースであり、優美な芸術性に溢れています。1972年のベント·ツリーCC(テキサス州ダラス)もLPGAやPGAシニアトーナメントの開催実績があり、同年のマコーミック·ランチGC(アリゾナ州スコッツデイル)も住宅とゴルフ場の統一性がとれた秀作と言えます。
70年代に入ってからは、ジャック·ニクラウスと組み、1972年オハイオ州メイソン市ゴルフセンター·グリズリーコース、1975年スペイン·マドリッド郊外のラ·モラレハ·ゴルフ(ここはビング·クロスビーが1977年に85でラウンドした後、心臓発作で亡くなったゴルフ場)などを手がけました。
こうした中でミュアフィールド·ビレッジは一つの頂点と言えます。オハイオ州にあるこの有名なゴルフクラブは、1976年以来、メモリアルトーナメントの開催コースとなっており、1987年にはライダー·カップの舞台にもなった世界トップ100の常連コースです。このプロジェクトにおいても、ミュアヘッドは単にゴルフコースや道路付けを設計しただけではなく、町全体の企画、レイアウト、微妙な色合いに至るまで演出しました。この傑作は、ゴルフ場と住宅のマスタープランが共存するあり方を定義づけたと言っても過言ではありません。
しかし、この後、突如としてミュアヘッドはゴルフ場の設計から遠ざかってしまいます。
この間のことについては、色々な説があるようですが、ミュアヘッドはオーストラリアに渡ってしまい、約10年の空白期間が生まれました。彼にとっては長い長い充電期間であったのかもしれません。
しかし、80年代の半ばになって、ミュアヘッドはゴルフ場設計の世界に復活します。その後の彼は、アーティストとしての側面を新しい形で解き放ちました。博覧強記であった彼は、日本芸術、ギリシャ神話、印象派美術などにも造詣が深く、パー3についての会話にウィットゲンシュタインやカントの哲学の話を持ち込んで、人を唖然とさせるところもありました。1987年開場のアバディーンGC(フロリダ州ボイトンビーチ)は、人魚やドラゴンをモチーフにしたコース設計で、業界をあっと言わせました。ギリシャ神話をテーマにしたのが、ニュージャージー州ストーンハーバーGCや日本の新陽カントリー倶楽部です。韓国には「海の戦い」をテーマにしたコースもあります。
しかし、コース設計にテーマや象徴主義を持ち込み、アート、神話、彫刻といった要素を反映させたことは、伝統的な人々の抵抗を受けます。
ミュアヘッドに言わせると、「自分は限界を破ろうと挑戦しているのだ。しかしほとんどのゴルフ場設計家はロマンチックなノスタルジーに浸って、革新を疎かにしている。」ということになります。彼は、ゴルフ場設計家協会にも所属せず、通常の殻に閉じ籠らずに考え、挑戦的な姿勢をとり、徹底的にアウトサイダーであろうとしました。それが、ミュアヘッドが過小評価される傾向にある一因かもしれません。
しかし、晩年のミュアヘッド設計の奇抜な見た目だけをとらえて、かれの人物、哲学、全体的な功績に目を向けないのは間違いです。
ミュアヘッドは「ゴルフとは人が作り出すもので、神からの賜り物ではない。」「土地はそこにすでにある。必要なのはデザインである。ゴルフ場は土地の形状を変えて作ることが出来るが、そこには何故そうするかという理由がなければならない。」と言います。
彼は、良いゴルフ場の3つの要素として、リズム、バランス、配列を挙げます。リズムとはデザインのパターンによって生み出され、難度と驚きを生み出します。そしてリズムを最もよく分かっているのは自然であり、デザインで自然を凌駕することは難しいとも言います。バランスはインとアウト、およびパー3、パー4、パー5のバランスです。その好事例として、彼はペブルビーチの海と陸のバランスを挙げます。配列とは、ラウンドが進むにつれてコースが明らかになっていくスピードです。ゴルフ場をラウンドして、すぐにそのコースのことが分かってしまうようでは、それは設計家の失敗であるということです。
生前のインタビューで彼は次のように語っています。
「形式に対する畏敬、それこそが日本のゴルフを包んでおり、アメリカのゴルフにないもの。日本でのコース設計に際しては、日本の美学に潜む尊厳、形式に対する畏敬というものを理解し尊重しようと努めた。形式は上手く移行させることが出来る。しかしそれだけでは精神性に欠ける。日米の野球の違いを見ても分かるように、ルールは同じでも、アプローチの仕方は異なるのだ。しかし、イチローも偉大な芸術家も、同じように文化の違いを超越して天才ぶりを発揮するものなのだ。」
また、「後継者や遺すべき物はないのか」と聞かれ、ミュアヘッドは、あえてラテン語でこう答えています。「I was sui generis. (私は唯一無二であった。)」と。
大きな声と笑い声、ユーモアたっぷりで博識、人に影響を与えずにはいられない、しかし時に気難しく、迎合することを嫌った、デズモンド·ミュアヘッド。
最後に、ロバート·トレント·ジョーンズ設計事務所のCEOジョン·ストローンがミュアヘッドの没後に彼をこう評した言葉を紹介しましょう。
「彼の競合相手たちは、彼を恐れ、嘲笑し、にもかかわらず、彼の革新に適合した。彼は矛盾に満ちた存在で、社交的な一匹狼であり、勇敢でありながら、不安を抱えていた。彼は大きな船であり、大きな航跡を残した。」
3.ミュアヘッドと私たちのかかわり
BWCは1990年代後半の5年間をかけてメンバーの議論をもとに今の形が作られましたが、最も大きな課題は当然ですが「ゴルフコースを作る」ということでした。それにはとにかく良い設計者にお願いしなければなりません。様々な意見·情報をもとにジャック·ニクラウスという名前が上がり、そしてニクラウスに設計のノウハウを伝授したミュアヘッドに行き着いたのです。
フロリダに事務所があることが判明し、ファックスで接触を試みましたが返事がありませんでした。1カ月ほどたったある日、カリフォルニア州ニューポートビーチの事務所からファックスが届き、直接秘書と話をすることができました。フィリピン出張の帰路日本に立ち寄り会っていただけるとのことでついにミュアヘッドとの面会が実現したのです。
最初のミーティングではBWC(もちろんまだ名前はありませんでした)のコンセプト、特に誰かの利益につながるゴルフ場ではなく、メンバー全員が所有し運営する、スコットランドのクラブと同じものを作りたいこと、自然を破壊するのではなく自然と調和し、何度プレーしても飽きないコースであること、維持費が安く収まること等を説明し、一定の理解を示していただけましたが、こちらの提示した設計料がミュアヘッドの想定の半分以下であったことから物別れに終わりました。
その後、粘り強くコンタクトを続けた結果、ニューポートビーチでの第2回目のミーティングにこぎつけました。金額面での乖離は埋まらなかったものの、図面をもとにした議論では目の色が変わり、興味を示してくれました。
打ち合わせでのミュアヘッド
金額面での乖離は埋まらないままでしたので、作戦を練り直し、設計にあたっての様々な条件を検討して3回目のミーティングに臨みました。私たちは「営利目的ではないこと。」「個人的には誰も得をしないこと。」「日本にも私たちが考えているようなクラブが必要であること。」など繰り返しお話しし、丸々2日粘りました。その結果、こちらの申し出た金額で採算を度外視して受け入れてくれたのです。
1996年6月22日、ミュアヘッドとの間で合意文書が交わされました。
その中には「初心者に易しく、中級者に快適で上級者にチャレンジングであること。」など、ゴルフ場を造るにあたっての基本的なコンセプトが書き込まれています。
その後も数多くの打ち合わせを経て、造成工事は1997年の1月に始まりました。
コースの造成に立ち会うミュアヘッド
BWCのコースはスルーザグリーンに多くのアンジュレーションが採り入れられています。このことにより、コースの難度が高まるだけでなく、表面排水が促され(地下排水に頼らず)管理コストを低減できるというメリット、さらには夕陽が映し出す陰影がコースの美しさを際立たせるというメリットが生まれます。こうしたアンジュレーションを造り出す技術を持つシェーパー(ブルドーザーで凹凸を造形する専門家)として、ミュアヘッドはジョン・グレイを派遣してきました。ジョンは日本人の作業員と同じ現地の小屋で寝起きを共にし、コミュニケーションを図り、精力的に働いてBWCのアンジュレーションを造り出しました。
ミュアヘッドはこう話していました。「私は、日本人の多くが知っている何人かの著名人と会い、コース設計の依頼を受けた。その多くの依頼者は、日本で一番難易度の高いコースで、日本で一番楽しいコースを設計してくれという要望をしてきた。しかし、管理費の安い、自然破壊をなるべく抑え、自然との触れ合いを大事にといった注文は一つもなかった。」と。彼の芸術家としてのマインドや建築·都市計画·造園などを学び、住宅とゴルフ場が一体となった開発を多く手掛けてきた経歴から、私たちが自然と人間とのかかわりを一生懸命訴えたことに応え、この無茶な要請を受けてくれたことにつながっているように思われます。
また、「難度の高い、飽きないコースがいつでも挑戦意欲をかき立てるコースにつながる。」というのがミュアヘッドの考えでした。
一方でBWCには当然ながら上級者ばかりでなく、アベレージゴルファー、初心者、高齢者等様々なメンバーがいます。それらのメンバーがそれぞれの力量に応じて楽しめないといけません。こうした要請を満たしていくためにもミュアヘッドは「難度の高いコースを造るべき。」と考えていました。易しく造ったものを難しくするのは大変だが、逆はなんとでもなるという考え方です。「4・5箇所のティーイング・グラウンドを設定してそれぞれが好きな所を使って楽しめば良い。」とミュアヘッドは考えていました。「ティーイング・グラウンドを変えればコースも変わるし景色も変わる。君たちは3つも4つもゴルフコースを持ったことになる。」とも言っていました。皆さんはお気づきかどうかわかりませんが、各ホールにはジュニアのためのティーイング・グラウンドが用意されています。これもミュアヘッドのアイディアで造られたものですが、17年間使用されずにきました。最近のBWCジュニアの活動を見ているといよいよ使う時期が到来したように思います。
ミュアヘッドは、BWCオープンの2年後の2002年5月に79歳で世を去ります。BWCはおそらく彼が前面に立って設計した最後のゴルフコース、あるいは遺作の一つと言って良いのではないでしょうか。ミュアヘッドの没後、彼の遺したおびただしいスケッチ、設計図、写真や遺品はBWCがもらい受け、所蔵しています。その一部は現在クラブハウス内に展示していますが、今後はミュアヘッド・ミュージアムのような形で、将来にわたってお見せできるよう整備していきたいと考えています。また、ミュアヘッドが最も力を注いだ住宅一体型のゴルフ場も、今ミュアヘッド・フィールズとして日本で初めて実現しようとしています。ミュアヘッド最晩年に最も心血を注いだBWC。私たちはそのプライドを未来にもつないでいきたいと考えています。